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2020年3月30日 (月)

アビイ・ロード(2)

 ザ・ビートルズのアルバムを1963年の「プリーズ・プリーズ・ミー」から1970年の「レット・イット・ビー」まで順に聞くたびに、これは人間の一生を表しているなあ、といつも思っている。一生といっても赤ん坊からではなくて、15,16歳の若者が老人になって亡くなるくらいまでの期間を想定してしまうのだが、初期の若々しさや初々しさが、時が過ぎるとともに段々と落ち着いてきて老成し、そしてついには命が尽きてこの世から去っていってしまう、そういうイメージが湧いてくるのである。

 それはアルバム・ジャケットの移り変わりを見ればよくわかると思う。1964年の「ビートルズ・フォー・セイル」あたりから彼らの顔つきが変わり始め、65年の「ヘルプ!」を経て、同年の「ラバー・ソウル」になると、ちょっと別のバンドじゃないかと思われるくらい変わっていってしまう。もちろん顔つきだけでなく、楽曲の傾向もインド音楽やストリングスの導入、テープの逆回転やサイケデリック・ミュージックの影響など、複雑なものになっていった。

 そして「アビイ・ロード」である。このジャケットもよく知られているように、アビイ・ロード・スタジオの前にある横断歩道を4人が歩いているんだけれど、先頭を歩くジョン・レノンは司祭、次のリンゴ・スターは黒い服なので葬儀屋、ポールは1967年1月に自動車事故で死んでしまったと噂されていたので死人、最後を歩くジョージ・ハリソンは墓堀り人夫と暗に仄めかされていた。駐車中のフォルクスワーゲンのナンバーが、もしポールが生きていれば28歳になるはずだという意味で、"IF28"になっているとまで言われていた。実際は、この日は暑くて、ポールは思いつきでサンダルを脱いで裸足になっただけだったのに(裸足は"死者"を意味するマフィアの符号といわれている)。1969年8月8日午前10時頃のお話だ。

 "アビイ・ロード・セッション"は、前回も記したように、1969年の7月から本格的に始められた。決していいムードで進んでいたわけではなく、4人のメンバーはかなりの緊張とプレッシャーを感じながらも、レコーディングを進めていった。
 アルバムのタイトルは、当初「エヴェレスト」と名付けられ、ジャケット写真も現地まで言って撮影しようという案まで出されたが、当然のごとく却下された。実際は、「エヴェレスト」という名前は、エンジニアのジェフ・エメリックが当時吸っていたメンソールのたばこの銘柄であり、ネパールにある山とは無関係だったからだ。

 ただ、ポールはエヴェレストは世界一高い山だから頂点を意味する、最高点だし、このアルバムの内容に当てはまるよ、と一時は支持していたようだ。そして結局は、シンプルに「アビイ・ロード」になったのである。もちろん、これは今までお世話になっていた、そして今もなおレコーディングをしているスタジオにちなんで名づけられたものだった。

 このアルバムで目立った活躍をしたのは、ポールだけでなく、やはりこの人ジョージ・ハリソンを忘れてはならないだろう。彼はこの時期シンセサイザーに興味を示し始め、このレコーディングにも大型ユニットのシンセサイザーを持ち込んだのである。だからこのアルバムでは、シンセサイザーも演奏している。ザ・ビートルズ時代では、レノン&マッカートニーの陰に隠れてあまり目立たなかったジョージだが、実は進取の精神に富んでおり、シタールやシンセサイザーなど、その当時の先駆けとなるようなものを好んで取り入れているのだ。あるいはその逆かもしれない。彼が取り上げたことによって注目され、時代のトレンドになった可能性もあるだろう。

 そのシンセサイザーは、"Maxwell's Silver Hammer"や"I Want You(She's So Heavy)"の後半部分、自分自身で作った曲である"Here Comes the Sun"、"Because"などで聞くことができる。特にジョンの作った"Because"では、全面的にムーグ・シンセサイザーが使用されていて、ギターとユニゾンで奏でられている。コーラスはジョンとポールとジョージの3人だ。ベートーベンの「月光」のコード進行を逆からたどったとされていて、1時間くらいでレコーディングが終わったという記録が残されている。

 それにジョージはまた、このアルバムにおいてレノン&マッカートニーに匹敵する、いやそれ以上の歴史に残る傑作を2曲も残している。みんな知っている"Something"であり、"Here Comes the Sun"である。
 "Something"は当時の妻だったパティ・ボイドに捧げられていて、"Come Together"とのダブルA面としてシングル・カットされた。ジョージの曲が、ザ・ビートルズ時代でシングルのA面になったのはこれが最初で、そして最後になった。ギターはジョージ自身だが、ピアノはジョンが弾いている。
 
 それにしてもパティ・ボイドという人は、何というラッキーな人というか、ある意味、ポピュラー音楽史上に名を遺した女性の一人になった。しかも自らは表現せずに、対象者としてだ。ギリシャ神話に出てくる音楽・文芸の神ミューズとは彼女のような存在なのかもしれない。"It's All Too Much"もパティに捧げられているし、あのエリック・クラプトンの歴史的名曲"Layla"や、日本でもヒットした"Wonderful Tonight"もパティについて歌われたものだった。

 "Here Comes the Sun"では、今まで長い長い冬が続いてきたけれど、やっと太陽が顔を出したと歌われていて、ポールはこれを聞いて、初期の頃のように、みんなが集まってお互いがよくわかっている方法で曲作りが進んで行くことを意味していると喜んでいたそうだ。ただこの曲は、レコーディングが嫌になったジョージがアビイ・ロード・スタジオを抜け出して、エリック・クラプトンの家で作った曲だった。だから、ポールの考えと少し違うのではないかと考えられる。実際は、ザ・ビートルズ解散後のことも視野に入れての自分自身のことを歌っているのではないだろうか。ちなみにこの曲でも、ジョージはギターとシンセサイザーを担当していた。

 そして、このアルバムが完成までこぎつけることができたのは、やはりポール・マッカートニーのおかげだろう。"Oh! Darling"では声をからして迫力を出すために、1週間毎朝スタジオに出てきて歌っていたし、ジョンの曲だった"Come Together"ではエレクトリック・ピアノを、"I Want You(She's So Heavy)"ではアレンジを行い、実際に自分で歌ったりもしていたそうだ。

 さらには後半の"You Never Give Me Your Money"から続く一連のメドレーは、まさにこのアルバムの白眉だろう。このメドレーのおかげで、このアルバムの価値がさらに高まったはずである。当時はすでにプログレッシヴ・ロックというジャンルが確立されつつあったが、こういうメドレー形式もプログレッシヴ・ロックに影響を与えたに違いないだろう。「アビイ・ロード」は「サージャント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」とは違ってトータル・アルバムではないけれど、怪物バンドが放った最後の輝きという点では、トータル・アルバムと言ってもいいのかもしれない。

 "You Never Give Me Your Money"はもちろんアラン・クラインを含むアップル社や自分たちの財政上のトラブルを歌ったもので、"A Day in the Life"のように、いくつかの曲を一つにまとめたもの。"Sun King"はジョンの曲で、元のタイトルは"Los Paranoias"と付けられていた。一部はスペイン語で歌われているが、単語を並べただけの様だ。"Mean Mr. Mustard"と"Polythene Pam"は、インドでジョンが作った曲で、いずれも未完成のものだった。この曲の原型は「ホワイト・アルバム」50周年記念盤の"Esher Demos"に収められていた。

 "She Came In Through the Bathroom Window"は実際にあった事件に基づいて作られた曲で、ポールの家にファンが侵入し、父親の大事な写真を持って行ったという実話を脚色している。確か、映画「Let It Be」でも歌われていたんじゃないかなあ、ちょっと記憶がはっきりしないけれど。"Golden Slumbers"は、16世紀のエリザベス朝の劇作家トマス・デッカーの詩にポールが曲をつけ、一部歌詞を付け加えたもの。続く"Carry That Weight"もポールの曲で、これもまたビジネス上の問題について歌ったものだった。

 でも、リスナーとしては、あるいは自分のように英語がよくわからない人にとっては、そんな経済的な問題ではなくて、なんか人生における生き方というか、処世訓のような意味を心の中で期待していたし、そのように捉えていた。当時のザ・ビートルズは、若者にとっての教祖のような、そして教師のような、また親のような、そんな側面も含んで見せてくれていたのである。

 そして"The End"である。果たして彼ら自身は、これで終わりと思っていたのだろうか。雰囲気的にはこれでザ・ビートルズも終わりだろうという漠然とした思いはもっていたように思える。でも、ポールだけは解散はしないと思っていたに違いない。彼は最後までザ・ビートルズを守ろうとしていた。だから彼の言葉にはこうある。『僕がザ・ビートルズをやめたのではない。ザ・ビートルズがザ・ビートルズを去っていったんだ』

 とにかく、この曲ではフィナーレを飾るように、リンゴのドラム・ソロからポール、ジョージ、ジョンの順番でギター・ソロをとっている。この終りの3曲、"Golden Slumbers"から"The End"までは全員そろってレコーディングされた。1969年7月30日のことで、4人そろってのレコーディングとしては、この日が最後になった。

 "Her Majesty"については面白いエピソードがあって、もともとはメドレーの中の"Mean Mr. Mustard"と"Polythene Pam"の間に収められていたのだが、最終的にはカットされた。ところが当時の慣習で、完成したマスターテープからカットされたものは、すべてリールの最後のリーダー・テープに残しておいてメモ書きを残すというものがあって、担当のエンジニアだったジョン・カーランダーもそうしたのにもかかわらず、何故かメモが無視され、"Her Majesty"が最後にくっついたテープがアップル社に回され、そのオリジナル盤がポールによって試聴されたのである。

 ポールは全部聴いて帰ろうと立ち上がった時に、この曲が聞こえてきてびっくりしたという。でも、それもまた楽しいだろうということで、"Mean Mr. Mustard"の最後のコードが入った"Her Majesty"が残されたわけだ。今ではポールによるアンコール・ナンバーという位置づけだが、実際はメドレーの中の一曲だったのである。

 とにかく、レコードでいうところのサイドBは、最初の2曲は除いて、残りの"You Never Give Me Your Money"から"Her Majesty"までは、まるでジグソー・パズルを組み合わせるかのような感じで構成されていた。しかもそのパズルが100%完璧にマッチしていたのである。まさに偶然の産物とはいえ、偶然が重なれば必然になるわけで、これはもうなるべくしてなったとしか言えないのではないか、そう思っている。ちょうどロウソクの炎が燃え尽きる時に、それまでとは違って一段と大きい炎に燃え上がるように。

 自分は、真面目に自分の葬儀の時には「アビイ・ロード」を流すようにお願いをしている。たぶん家族葬だから、もともと親族は少ないし、自分が死ぬときはほとんどいなくなっているだろうから、家族以外は誰も来ない。安心して流せるわけだ、自分は聞くことができないけれど。だから、どういう死に方をするかわからないけれど、もし病気なら死ぬ前に何度も聞くだろう。自分にとって「アビイ・ロード」とは、そういうアルバムなのである。
 また、これを作った時のジョンは誕生日が来ていなかったので28歳、ポールは27歳だった。ジョージにいたっては26歳で、最年長のリンゴは29歳だった。つまりみんなまだ20代だったのだ。やっぱりザ・ビートルズは史上空前のバンドだったのである。

 

 

[お知らせ]
 突然ですが、今回を持ちましてこのブログ「ろくろくロック夜話」を終了いたします。こんなつまらないブログでも13年間も続いてきました。最近ちょっと疲れてきて、あまりいい内容が書けなくなってきたと思うので、ここらへんで終わりにしたいと思いました。だから最後のテーマも「アビイ・ロード」にしました。
 一度でも読んでいただいた人に感謝いたします。ありがとうございました。たぶんもう再開はしないと思いますが、ひょっとしたら、どこか違うところで、何かしているかもしれません。ブログはやめてもロック・ミュージックはやめられません。死ぬまで聞き続けることでしょう。最後に、世界中の皆さんが健康で、平和な人生を送れるように願っています。それでは、さようなら。お元気でいて下さい。

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2020年3月23日 (月)

アビイ・ロード(1)

   いよいよ終りに近づいてきたようだ。今回と次回は2週にわたって、ザ・ビートルズの実質的ラスト・アルバムになった「アビイ・ロード」のことについて記そうと思う。何しろ、自分の葬儀の際には、このアルバムを流し続けてほしいと近親のものにも随分前から伝えているくらい、このアルバムが大好きなのである。

 記憶が曖昧で申し訳ないけれども、確かレコードで発売されていた時には、それに付随していた帯に『A面の野性味、B面の叙情性』と書かれていたような気がするのだが、レコードのA面ではジョンの印象が強くて、"ロック"していたし、B面では例のメドレーの印象があって、ポールのイメージが強かった。

 それに、いまさらこんなことを言うのも変だけど、あのザ・ビートルズのラスト・アルバムなのだ。発売順では1969年の9月に「アビイ・ロード」が発表され、1970年5月には「レット・イット・ビー」だったが、「レット・イット・ビー」のオリジナルは、"ゲット・バック・セッション"として知られていて、これは1969年1月にレコーディングされていたから、やはり「アビイ・ロード」の方がラストになる。「アビイ・ロード」のレコーディングは、69年の2月以降から始められたからだ。それにまた、確かに1970年に入っても「レット・イット・ビー」のレコーディングは行われたが、4人そろって行われたことはなく、断片的な追加のレコーディングだった。ということは、やはりザ・ビートルズとしてのアルバムとしては、「アビイ・ロード」の方が実質的にはラスト・アルバムになるのではないかと考えている。

 これもまたみんな知っていることだけど、ザ・ビートルズの「ホワイト・アルバム」あたりから、メンバー間の仲が悪くなり、亀裂が入り、口論まで行われるようになった。途中で、ジョージ・ハリソンやジョン・レノンがレコーディングに参加しなくなったり、公然とバンド脱退を口にしたりするようになった。

 普通のバンドなら、もうこれで終わり、解散するはずだ。アルバムを作るなんてありえないし、せいぜい解散ライヴを行うくらいが関の山というもの。それをこのザ・ビートルズは、スタジオ・アルバム1枚分を作ってしまったのだ。しかもそのアルバムの水準が、これはもう当時のアルバムとは比較できないほど素晴らしく、ザ・ビートルズの過去のアルバムと比べても遜色ないというよりは、一、二を争うほどの素晴らしい内容の出来栄えだった。まさに怪物バンド、こんなバンドは唯一無二の存在だし、もう二度と現れないだろう。

 「アビイ・ロード」がどれほど素晴らしいのか、どれくらい歴史的な価値があるのか、自分の表現力では伝えようがない。職業作家なら正確に記述することもできるだろうが、一介のブロガーでは、しかも自分のような素人には、どうしようもなく無力である。だから、歴史的に検証したり、楽曲的に解説を加えるのではなくて、自分の心の浮かんだことや、今まで知り得た知識を使って、自由気ままに、思いつくままに記してみたいと思う。

 1969年1月に行われた"ゲット・バック・セッション"は、未完に終わった。レコーディングは行ったものの、そのままほったらかしにされてしまった。ザ・ビートルズにしてはそれまであり得なかったことで、いかに当時の彼らに集中力が欠けていたというか、やる気がなかったかという結果だろう。あるいは、作品作りよりも他にやることがあって、それどころではなかったということか。

 だから、そのセッション記録は、最初はグリン・ジョンズが担当したものの、みんな納得しなかった。それでジョン・レノンが当時親しかったフィル・スペクターにお願いをして、プロデュースしてもらったのだ。ジョンやジョージは納得したものの、もともと初期の頃のように何度もダビングするのではなく、ロックン・ロール・バンドとしての荒々しさや情熱が発揮されるものを望んでいたポール・マッカートニーは、承服しなかったのだ。だって"Get Back"なんだから、原点に返ろうよと言っているのに、コーラスやストリングスなんかは必要なかったはずだ。

 時系列的に見ると、1969年2月には悪名高きアラン・クラインがマネージメントを行うようになるし、3月にはジョンがヨーコ・オノと、ポールがリンダ・イーストマンと結婚している。また逆に、ジョージは妻のパティ・ボイドと大麻所持で逮捕されているし、リンゴは映画「マジック・クリスチャン」でピーター・セラーズと共演をしていた。だから、レコーディングどころではなかったのかもしれない。

 こういう状況を疎ましく思っていたのが、ポール・マッカートニーだった。"ゲット・バック・セッション"もポールの提案で、もう一度デビュー当時の原点に戻ろうと、他のメンバーに呼び掛けて実現したものだった。それが未完に終わったのだから、これはこのままでは終われないと考えたのだろう。それで、ポールはジョージ・マーティンの所を訪ねてニュー・アルバムのレコーディングに協力してくれるように頼んだのである。そして、ジョージ・マーティンは、全員が協力してくれるならという条件の下で、引き受けたのだった。

 本格的なレコーディングは、1969年の7月から始まったが、その年の2月くらいからいくつかの曲のレコーディングが始まっていた。例えば、ポールの"Maxwell's Silver Hammer"であり、ジョンの"Mean Mr. Mustard"の原型になった"Dirty Old Man"などだった。
 ところが一説によれば、この時レコーディングされたマスター・テープが盗難にあってしまい、取り戻しはしたものの、なぜか税関のX線検査で録音されていた曲が消去されたと言われている。真偽のほどは定かではないが、当時の雑誌にはそういう記載があったという(The Rolling Stone誌69年9月17日号)

 また3月にはジョンの"I Want You(She's So Heavy)"が出来上がり、4月になると、ジョージの"Something"のファースト・テイクが録音され、ポールの"Oh! Darling"も始まっていた。5月ではリンゴの"Octopus's Garden"やポールの"You Never Give Me Your Money"のデモ・テープも制作されるようになったのである。だから、当時のレコードのA面の主な曲の原型は、この時期に作られたものであり、だからサイドAは1曲1曲が独立した印象を与えてくれるのだろう。"A面の野性味"には、こういう背景があったのだ。

 それで結局7月になってから、彼らはロンドンのEMIスタジオに集まり、60年代初期のやり方でレコーディングを開始していった。ポールはこう述べている。『トンネルを抜けつつあった。またみんなで集まって、よくわかっているやり方に戻って、すごくうれしかったんだ』
 しかし実際は、2人や3人の時には和やかな雰囲気でレコーディングが進んでいったが、4人揃うとなぜか険悪なムードになり、些細なことで言い争いが始まったようだ。リンゴはあまりスタジオに来なくなったし、ジョンはヨーコとの共同作業、つまりプラスティック・オノ・バンドの作業があって、これまた徐々に顔を出さなくなっていった。

 さらには、ベイシック・トラックが録音されると、それにオーヴァーダビングをつけるために、ジョンやジョージは、もちろんポールも含めて、それぞれが自分のスタジオに持って帰り、そこで作業をするようになった。そうなると、これはもうソロ・アルバムの作成とほとんど変わらなくなってしまったのである。これでは"ゲット・バック・セッション"の二の舞になってしまう、これはよくないぞ、そう感じたのがポール・マッカートニーだった。

 だから、最初から最後までバンドを引っ張っていったのはポール・マッカートニーで、彼の情熱というか、最後まで続けようとする強い信念が、ザ・ビートルズをザ・ビートルズたらしめていたのである。
 しかし、運命の女神は皮肉なもので、7月にジョンとヨーコ、先妻の子のジュリアン・レノンは、ジョンの運転する車で事故にあってしまい、特にヨーコは背骨を折るほどの重症になって、しばらくは寝たきり状態になったのである。ジョンのそばにいたいヨーコは、体は動かせなくてもベッドは動かせると考えて、レコーディング中のスタジオにベッドを運ばせて、その中で生活するようになった。

 関係者が言うには、ベッドの上にはマイクがぶら下がっていて、それはヨーコが何か伝えたいときのために、用意されたものだった。また、彼女を見舞うためのお客さんがひっきりなしに訪れてきてかなり騒がしかったようだが、メンバーはそんな状況の中でレコーディングを続けていった。そういう状態の中で緊張感を保つには、人並み以上の集中力が必要だろう。よくまあ、あんな素晴らしいアルバムが出来上がったものである。

 さらには当時20歳だったアラン・パーソンズは、ヨーコは誰かに使いを出してもらって食べ物を持ってこさせていて、時々寝ていたと言っている。ジョンが横にいる時もあったし、いない時もあったが、でもどう見ても、あれはホテル暮らしにしか見えなかったよ、と当時を振り返っていた。

 ザ・ビートルズのリーダーは、名実ともにジョン・レノンだったから、誰もジョンには気兼ねして言えなかったのだろう。ポールは、ジョンには頭が上がらなかったから、びっくりしたようだが彼女のそばで仕事を続けるしかなかった。彼は言う、彼女を避けて歩くしかなかったんだよ、そのベッドをのかせ、なんて言えないよ。ジョンの彼女なんだから、と。

 同時に、音楽面だけでなくて、財政的な面でも危機的な状況にあった。彼らが設立したアップル・レコードは放漫経営で赤字続き、倒産も時間の問題といわれていたし、当時の英国の税金制度による破格の徴収率も問題になった。だから稼いでも稼いでも湯水のように消えていってしまうのである。

 ポールは、ビジネス面ではきつくなっていって、自分たちが稼いだものをすべて失ってしまいそうだった、と述べていた。実際は印税が入るからすべて失うことはないだろうけれど、その印税も彼らの版権を所有していたノーザン・ソングス社が売却に出されたため、自分たちで管理できなくなってしまったのは事実である。そのうえお金だけでなく、ザ・ビートルズまで失いそうになったのだから、ポールにしてはかなり深刻な状況だっただろう。さらに彼はまた、必死の思いで稼いだ、朝から晩までずっと音楽活動に励んでいたよ、僕らはすごい働き者だったからとも言っていて、職人集団のように完璧を目指して音楽活動に取り組んでいた。その完璧さを求めるがあまりに、結局はバンド内に亀裂が走ったのである。

 そんな中でもレコーディングは続けられた。ポールの作った"Maxwell's Silver Hammer"なんかは2日半もかかってやっとレコーディングが完了したという。プロデューサーのジョージ・マーティンは、時間がかかりすぎると本気で怒ったらしい。最初の予定では、午前中2曲、午後2曲録音するつもりでいたからだ。つまり荒削りのようなライヴ感覚を生かしたレコーディングが目標だったのだろう。"ゲット・バック・セッション"の趣旨がそうだったのだから。

 ただし、この"アビイ・ロード・セッション"では、ジョージ・マーティンと約束したように、4人がそろうことももちろんあった。リンゴ・スターの作った"Octopus's Garden"では、ピアノがポール、リード・ギターがジョージ、ギターのアルペジオを弾いているのがジョンで、コーラスはポールとジョージだった。泡の音は、リンゴ自身がストローでコップの水を吹いて作っている。上記にもあるように5月に一度録音されたが、7月にもう一度レコーディングされている。

 アルバムの最終ミックスが行われ、完成したのは1969年の8月20日だったが、その日もザ・ビートルズの4人が立ち会っている。そして、それがザ・ビートルズとして4人がそろった最後の日になったのである。
(To Be Continued...)

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2020年3月16日 (月)

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 「WHO」といっても「世界保健機構」のことではない。確かに、新型コロナウイルスは世界中に猛威をまき散らしていて、なかなか収束の道筋が見えないのだが、このブログは音楽、特に洋楽が中心なので、保健衛生とは無関係である。
 それで「WHO」とは、イギリスのロック・バンド、ザ・フーの新しいアルバムのタイトルだ。ザ・フーだぞ、ザ・フー、もう活動中止というか、永遠に活動しなくなっただろうと思っていたのに、何とまあ、ほとんど新曲でニュー・アルバムを発表してくれたのだ。これはもう奇跡的なことではないだろうか。また、チャート・アクションも良くて、英国ではアルバム・チャート3位に、米国ではビルボードで初登場2位だった。

 何しろ元は4人組だったのに、ドラマーのキース・ムーンは1978年に、ベーシストのジョン・エントウィッスルは2002年に、それぞれ亡くなっていて、結局残ったのは、リーダーのギタリスト、ピート・タウンゼントとボーカリストのロジャー・ダルトリーの2人だけになったのだ。
 しかも現在は、ピートは74歳、ロジャーは75歳の老老コンビだったから、これはツアーはもちろんのこと、新作を期待するのは100%無理だろうと思っていた。ところがどっこい、ロック・ミュージックの神様は、不可能を可能にする力を持っていたのだ。これを世の中の人は、"奇跡"と呼ぶのだろう。

 ピートは2014年に始まった「結成50周年記念ツアー」終了後、長期の休みを取ったが、その時に、新曲をレコーディングしない限り、もう二度とロジャーと一緒にはツアーには出かけないと決心したようだ。そして、ザ・フー向けの曲は書けないけれど、ロジャー・ダルトリーのための曲ならまだまだ書けるだろうと考えて、曲を15曲準備したという。74歳にしてこの創造力、やはりロック・レジェンドは、常人とは違う何かを持っているのだろう。こういうのを世間の人は、"天賦の才"と呼ぶのだろう。

 ロジャー・ダルトリーは、送られてきた曲をピート・タウンゼントのソロ・アルバム用の曲だと勘違いしてしまい、最初はスルーしていたそうだ。それでピートから『これらの曲はお前のために書いたんだよ。おまえのための曲だ』と何度も力説されて、ついに歌うことを説得させられたそうである。もちろん説得の効果だけでなく、曲自体の出来も良かったからだろう。アルバム発表後にロジャーは、このニュー・アルバムは「四重人格」以来のベストなレコードだと言っていたからだ。

 それにまた、曲自体の良さだけでなく、ロジャー・ダルトリーの声の調子も良かったから、レコーディングに踏み切ったのだろう。ロジャーは、2年前にソロ・アルバム「アズ・ロング・アズ・アイ・ハヴ・ユー」を発表していて、ピートはアルバムを聞いた途端、ロジャーの調子の良さを実感したそうなのだ。当時73歳ぐらいだったから、年齢を気にさせないほど良かったのだろう。

 ピートは、ザ・フーに合う音楽を書こうとしたのだが、その時、あらためて"ザ・フーとは何か"と考えたらしい。彼は、ザ・フーは存在しないと考え、今のザ・フーは自分(ピート)とロジャーだけだと思ったというのである。そして、この新作アルバムについても、『ザ・フーの今までやってきたこと』を再現すべく取り掛かったらしく、その時にザック・スターキーとピノ・パラディーノをスタジオに呼んで、一緒にレコーディングを開始したのだが、決して"ザ・フー"になることはなくて、それはあくまでもピートとロジャーとザックとピノの4人組であって、ザ・フーではないということを力説していた。なるほど、今のザ・フーは2人組のユニットというわけだ。

 それでこの13年振りのニュー・アルバム「WHO」には11曲(日本国内盤には15曲)収められている。1曲を除いて、いずれもピート・タウンゼントの作品か共作になっている。
 何しろ冒頭の"All This Music Must Fade"からしてカッコいい。カッコいいだけでなく、まさに"ザ・フー"ともいうべき作品だと思う。曲にもキレがあるし、ノリもいいし、アルバムの1曲目にふさわしいのだ。ロジャーのボーカルも全然年齢を感じさえないし、ほとんど衰えを感じさせない。これが75歳の声なのだろうか、25歳でも十分通じるのではないだろうか。さらにまた歌詞がいいのだ。
「俺は気にしない
俺はお前らがこの歌を嫌いになることはわかっている
そしてその通りだろう
俺たちは本当に仲良くやってこなかった
新しくないし、変化もない
お前らのパレードのような出来事を明るく照らしたりもしない
それはただの単純な一節さ

全てのこんな音楽は消えていくだろう
手刀の刃のように欠けていくだろう
全てのこんな音楽は消えていくだろう
ちょうど刀の刃のように欠けるだろう

俺は消えていきつつある
そして二度と戻ってこないだろう
白鳥のように
俺は本当にまったく愛想がよくない
俺はブルーじゃないし、ピンクでもない
ただの灰色で、心配症だ
そしてほんの一瞬のように見えるんだ

お前たちのものはお前たちのものさ
俺のものは俺のものなんだ」
(訳プロフェッサー・ケイ)

 この自己認識の的確さ、表現の正確さが、21世紀の今でも通用するところがすごい。さすがザ・フーであり、ピート・タウンゼントの持つ感性の鋭さの表れだろう。
 この逆の立場をとったのが、1970年代半ばに勃興したパンク・ロックの持つ意識だった。当時のパンク・ロッカーやバンドたちは、もうお前たちの時代は終わった、1曲、5分も6分もあるような曲なんか聞いていられねえ、退屈なんだよ、もっとシンプルにスパッと言いたいことを言えよ、と言っていたのだが、あれから約50年たって、この曲はそのパンク・ロックに対するアンサー・ソング的な性格をも有しているし、この曲自体、オールド・ロッカーによるパンク・ソングなのだと思う。

 つまり、ザ・フーはその表現方法の中に、パンク・ロック的な意識を内蔵しており、いつの時代にも変わらずその考えを発揮してきたのだ。1964年のデビューからずっと、意識していたかどうかは別として、体制を批判するものとして、あるいは現状維持を忌み嫌うものとしてのパンク・バンドの立場や表現を維持してきたのではないだろうか。

 以前といってももう40年近く前になるが、あるコミック誌にザ・フーを模したようなシーンがあった。主人公の男性がロンドン市内で追ってから逃げているときに、高級レストランに逃げ込んできた。そこはドレスコードがあり、ネクタイ着用じゃないと入れないところだった。主人公は着の身着のままだからネクタイなんかはしていない。困ったところに、ザ・フーと思われる風貌の一団が到着してきた。彼らも公演が終わった直後なので、ネクタイはしていない。すると、その場を察知したロジャー・ダルトリーっぽい人が、それならこれでいいだろうと言って、ロンドンブーツのひもをとって首に巻いたのだ。一本は自分用に、もう一本は主人公用に…

 いまだにこのシーンを覚えているのは、このしぐさというか対応が、いかにもザ・フーらしいからである。この機転の巧みさや旧体制に対する反抗心などが、このコミックの一コマ一コマから垣間見られたのである。このコミックを描いた人もザ・フーのもつパンク的な部分を鮮やかに切り取っていたと思っている。

 このアルバムには、そういう反骨精神が脈々と息づいている。だから新鮮に感じるのだ。2曲目もそう。"Ball And Chain"とは文字通り、囚人に着ける足枷のことだ。キューバにあるグアンタナモ収容所のことが歌われている。ニュースでも知れ渡ったように、湾岸戦争の捕虜やテロ組織の人たちが入居させられて、ひどい拷問を受けたところである。もともとの曲は、ピート・タウンゼントの2015年のベスト盤に収められていたもので、今回リリースするにあたって再録したのである。ボーカルはロジャー・ダルトリーだ。このアルバムから最初にシングル・カットされた。

 音楽的にもザ・フーの魅力があふれていて、"I Don't Wanna Get Wise"ではポップな一面を見せてくれるし、"Detour"では1曲の中に転調が目立っていて、まるで70年代のロック・オペラの超コンパクト版を聞いているかのようだ。
 また、"Beads on One String"は哀愁味を伴ったミディアムテンポの曲で、はっきり言って"美しい曲"だ。こういう"美しさ"は今どきのロック・バンドでは表現できないのではないだろうか。単にメロディラインが綺麗だというだけでなく、曲の持つ雰囲気やアレンジなど、曲全体が美しいのである。最近のコールドプレイにも、こういう曲をやってほしかったと思ってしまった。

 またストリングス付きのロック"Hero Ground Zero"にはこう表現されている。
「俺はヒーローだ
グラウンド・ゼロ
最後はどんなリーダーも
ピエロになってしまう

あるゆるロック・スターは
映画を作りたがる
しかし闇の方が
光より安全なんだ

俺は戻るつもりはない
洒落た音楽に
この昔の丘の頂上から
飛び立つのさ」

 このアルバムには、テーマもコンセプトもストーリーもないとピート・タウンゼントは言っていた。ただピートと弟のサイモンが、歌声を新たに甦らせたロジャーのために刺激とやりがいと展望を与えようと書いた曲を集めたと述べていたのだが、ザ・フー流のバラード曲である"I'll Be Back"については、ロジャーは気に入ったものの、自分には歌えないと思ったようで、この曲のボーカルについてはピート・タウンゼントが担当していた。ザ・フーとモータウン・サウンドのハイブリット版である。

 ピートの弟のサイモン・タウンゼントが書いた曲が"Break the News"であり、テンポの良いアコースティック・ギターをバックに歌われていて、この曲もなかなかの佳曲である。途中のギターのアルペジオやハンド・クラッピングもいい味を出しているし、ハードなイメージのあるザ・フーにしては意外性があってよかった。

 "Rockin' in Rage"には、タイトル通りの憤りというか怒りが込められていて、まさに60年代後期にザ・フーが歌っていたような曲の再現だった。それに、単なる"怒り"だけでなく、それに至るまでの過程も含まれていて、最初から最後までハードであるならば、それはハード・ロックになってしまうが、ザ・フーの場合は緩急をつけた"ハード"なのである。昔からのファンならわかってもらえると思う。

 "She Rocked My World"は、異国情緒が味わえる想定外の曲だ。何となく南欧州の雰囲気で、アル・ディ・メオラが出てきてもおかしくはない。どこかでギター・ソロでもあるのかと思っていたけど、何もなかった。もともとザ・フーには長いギター・ソロなんかないし、むしろカッティングのキレの良さや曲全体の調和が美点だったから、それはそれでいいのだろう。

 確かにこのアルバムには、テーマやコンセプトはないかもしれない。また、壮大なスケールの曲も含まれていないだろう。でも、強いてあげるなら、60年代の生き残りバンドから今を生きる若者(もしくは全世代)に向けての強力なメッセージが含まれたアルバムに違いない。それは、我々60年代組は、こういう風にサバイバルしてきて、こんな決意をしているんだよ、お前たちはどう生きていくんだいと挑戦状をたたきつけているようだ。

 恐るべし、ザ・フーである。こんな爺さんたちにどう立ち向かえばいいのだろうか、どう応えればいいのか、乗り越えて行けるすべはあるのか、考えさせてくれるアルバムでもある。

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2020年3月 9日 (月)

コールドプレイの新作

 昨年の秋に、コールドプレイの新作「エヴリディ・ライフ」が発表された。このアルバムは、いわゆるコンセプト・アルバムで、"サンライズ"と"サンセット"の2部形式に分かれていて、一日24時間を描いている。こういう企画は、コールドプレイにとっては初めての試みのようで、今までのアルバムとは一線を画している。

 何が彼らをこういうアルバムにさせたかというと、彼らがワールド・ツアーをしていた2016年から2017年当時では、アメリカのトランプ大統領の出現やイギリスのEU離脱問題、それに中東のテロ組織との戦いやそれに伴う難民問題、キリスト教徒イスラム教の対立、さらには自国第一主義(逆に言えば排他主義)にポピュリズムの問題等々、政治的、宗教的、思想的に分断や対立が深刻化していったときで、そういったことを乗り越え、対立から融合への道を模索するために、アルバム制作を開始し、彼ら流のメッセージを込めているのである。

 このアルバムには荘厳な雰囲気を湛えた曲や、アメリカ南部のようなゴスペル曲も含まれているし、2曲の人種問題に言及した曲や銃規制を訴える曲などのメッセージ性を伴った曲もある。バンドのベーシストであるガイ・ベリーマンは、「クリスはもっと怒りを表現したいんだ。僕らが作ったアルバムの中で"ペアレンタル・アドバイザリー"のステッカーが貼られた初めてのアルバムなんだ」と言っていたが、今までよりも一歩踏み込んで、メッセージを発している点では評価されるだろう。

 さらには、旅客機の移動による二酸化炭素の排出が気候変動の大きな要因の一つとされていることから、このアルバムに関してのワールド・ツアーは行わないらしい。彼らは「今後、サステナブルなツアーを模索し、環境にプラスの影響を与えられる方法を考えていく」としており、ある一定の目途が立つようになれば、ツアーを行うのだろうが、それまでは封印するようだ。それこそ1960年代のツアーのように、バンかマイクロバスをレンタルして、楽器を乗せて移動するという気持ちなのだろうか。イギリス国内ならまだしも、それじゃ来日公演は無理だろう。ここ日本では、しばらくは彼らの姿をステージで見ることはできないようだ。白黒チェック キッズ ジュニア スノーボード スキー ミストラル

 でも思うに、世界中のどんな地域でもコールドプレイの演奏する姿を見たいと思っている人はいるだろうし、インターネットで見るよりは、実際の生の姿や演奏に触れたいと思う人は、数えきれないほどいるだろう。そういうファンの姿にどう応えていくのだろうか。そんなファンよりも飛行機の排出ガスの方が、気になるというのだろうか。社会正義を体現するのはいいのだけれども、ミュージシャンという立場を忘れないでほしいし、それとこれとは別問題のように思えるのだが、どうだろうか。

 それと、このアルバムを一聴した限りでは、どうもメッセージ性の方が音楽性よりも前面に出されていて、ロック・ミュージックの持つダイナミズムとか疾走感や衝動性が伝わってこないのである。ある意味、観念性の強いアルバムであり、彼らのメッセージを支える音楽性が脆弱なのだ。だから聞いていくにつれて、だんだんと暗く沈むようになってしまう。

 こういう観念性の強いアルバムというのはプログレッシヴ・ロックにはよくあるもので、例えばジョン・アンダーソンの「サンヒローのオリアス」、マイク・オールドフィールドやタンジェリン・ドリームの一連のアルバムには、そういう傾向が強い。それらのアルバムの特徴は、耽美的で、静寂性は伴っているものの、やはりロック本来の破壊性や衝動性にはほど遠い。感動はあっても、スカッと爽やかな感覚には浸れないのである。

 もし、これがU2なら、同じような問題意識を持っていたとしても、表現方法は異なるだろう。もっとロック寄りのアルバムを制作するに違いない。また、これがもしアメリカのバンドであるグリーン・デイだったら、どうだろうか。あの問題作「アメリカン・イディオット」で時のブッシュ政権を痛烈に批判した彼らなら、おそらく違う音楽性でメッセージを放出していくであろう。
 確かに、バンドの姿勢というか、バンドの音楽性によっては、表現方法が異なってくるのは事実だし、そのバンド本来の音楽で勝負するのが本来の姿なのだろうから、コールドプレイがこの「エヴリディ・ライフ」で表現したような音楽性を非難することはできないだろう。ただ、それを好むか好まないかは個人の問題であり、個人の嗜好なのだから、好き嫌いをとやかく言うつもりはない。自分にとっては、このアルバムは合わないというだけのことである。

 アルバムの1曲目は"Sunrise"で始まる。これは"Viva La Vida"のような室内管弦楽団風の曲で、こういう音楽を"チェンバー・ロック"というのだろう。ゆっくりと、まるで朝日が昇るかのように、徐々に徐々に彼らの世界観にいざなっていく。続く"Church"から彼らの流のロック・ミュージックが始まる。朝の祈りにしてはちょっとリズムが強い気もするが、今までコールドプレイの音楽を聞いてきた人なら、安心して聞くことができるだろう。途中でアラビア語で女性が歌っている箇所があり、まさにイスラム圏とキリスト教圏の対立を超克するかのようだ。

 曲間もなしに、次の曲"Trouble in Town"が始まる。これは人種間の対立を歌っていて、アメリカのアフリカ系アメリカ人が有無を言わさずヨーロッパ系アメリカ人の警官から射殺されている現実を歌っている。ダークな内容なので曲調も暗いし、途中で警察官の実際の音声も挿入されているのでよりいっそう既視感が強くなっていく。最後は、ズールー語でネルソン・マンデラを讃える子どもの声で終わるのだが、何となく無理にくっ付けた感じがして、どうせならもっとシンプルに終わらせてくれた方が、印象度は強かったのではないだろうか。

 "Broken"は、直球のアメリカ南部のゴスペル・ソングだ。まるで初期のレオン・ラッセルかデラニー&ボニーの曲のようだ。曲のどこかでクラプトンのギターでも聞こえてくるのかと思った。"Daddy"は文字通り父親を求める歌で、バンド・リーダーのクリス・マーティンが2人の子どもの父親だからという理由もあったのだろう。ピアノを主体にしたスロー・バラードで、ジョン・レノンの"Mother"に対抗して作られたのだろうか。曲の雰囲気が似ているので、そう思ってしまった。ただし、クリスの方は声を押さえて静謐の中で歌っていて、決してシャウトはしていなかった。また、クリス自身はこの曲のモチーフは3つあって、1つは自分自身のこと、1つは今まで父親を失ってきた人を数多く見てきたこと、もう1つはアメリカにおける刑務所産業複合体についてであり、たくさんの法律に人種差別が織り込まれていて、その結果、子どもたちが父親を奪われているということらしい。いずれにしても、シンプルで美しいバラードである。

 "Daddy"のあと小鳥の声が挿入されて、"Wonder of the World/Power of the People"が始まるのだが、これは曲自体が未完成で、アコースティック・ギター一本で歌われていて、まだデモの段階らしい。それならアルバムに収録するなよといいたくなるのだが、彼らの感性のなせる業というべきか。"Arabesque"は前半のクライマックスとも言うべき曲で、思想的にはイスラムとキリスト文化の融合を訴えており、音楽的にもフィーチャーされたサックス・ソロが、現実の悲劇と痛みと哀しみを表現している。パワーを秘めた曲でもあり、このアルバムで、コールドプレイの表現したいことが集約されている曲でもある。曲の後半のサックスはフェミ・クティという人が演奏していて、彼はアフリカ系の人の解放と平和のために戦ったフェラ・クティの息子だった。フェラ・クティは"音楽は武器、音楽は未来の武器"と述べていて、この曲にもこのメッセージが歌われていた。また、ベルギー人のストロミーという人も歌っている。

 前半最後の曲が"When I Need A Friend"で、ピアノをバックに、エコーのかかったアカペラのコーラスで歌われている。これにも雨音や街のざわめきなどのSEが加えられている。2分35秒という長さなのだが、静かな曲だったせいか、自分にはもっと短く感じられた。

 後半の"Sunset"は"Guns"から始まる。学校の始まりのようなチャイムのあと、ザ・フーのピート・タウンゼントが弾いているようなアコースティック・ギターに乗ってクリス・マーティンが歌っている。文字通り、銃規制の曲で怒りを込めて歌っているようなのだが、それならもっとシャウトするとか大声で歌うとか、何かしら表現方法はあると思うのだが、そこまで至っていない。内に秘めた炎というものだろうか。

 "Guns"は1分55秒と短く、あっという間に終わって次の"Orphans"が始まる。これは孤児のことを歌っていて、歌詞の中ではダマスカスと限定されていたが、もちろん戦争孤児や難民のことも含まれているのだろう。悲惨な内容の割には意外とポップで、思わず口ずさんだりもできるだろう。それはもちろん、ちょっと不謹慎だと思うけど。ちなみに"Arabesque"と"Orphans"は両面シングルで発表された。

 "Eko"はピアノとアコースティック・ギターによるアコースティックな作品で、これまた軽くて耳になじみやすい。彼らのポップな一面が垣間見られる曲だろう。"Cry Cry Cry"はジェイコブ・コリアーという人とのデュエット曲で、何となく60年代のモータウン風か50年代のキャンディ・ポップな魅力を伴っているややスローな曲。"Old Friends"はアコースティック・ギター一本で歌われるフォーク・ソングだろう。この辺は2分台の曲が続く。

 "Bani Adam"は輸入盤ではアラビア語で表記されていて、ベートーベンの"月光"のようなピアノ・ソロからエレクトロ・ミュージックへと一転する。"Bani Adam"とは13世紀のイスラムの詩人サアディーという人の作品で、かつてはオバマ大統領も演説で引用したほどの著名な作品の様だ。歌というよりも朗読のようで、もちろんアラビア語でなされている。
 その詩の朗読を受けて、"Champion of the World"が始まる。ミディアム・テンポの明るい曲で、何となく心がホッとしてしまった。この曲は当時10代だったクリスが経験したことを基にしていて、宗教に夢中だったクリスが周りの子どもたちからいじめられたことを歌っている。「いま大変な思いをしている若者たちに向けて、君ならできるって言っているんだ」と語っていたから、肯定的な内容なのだろう。だから曲のメロディーも明るくなっているのだろう。

 そして最後の曲は、アルバム・タイトルでもある"Everyday Life"だ。この曲もシングル・カットされていて、スローなリズムと美しいメロディを包み込むかのように室内管弦楽団が繊細なアンサンブルを披露している。"Sunrise"という曲と呼応しているかのようで、そういう意味では、確かに円環的手法のプログレッシヴ・ロックを踏襲している。

 彼らのファンなら言うことはないだろうが、個人的には、いまひとつ気持ちが晴れないのだ。彼らの初期に見られたようなギター・ロック・サウンドを再び期待していたのだが、2008年の「美しき生命」の成功以降、観念的というか思想性が重厚過ぎて音楽性が押されているような気がしてならない。確かに、曲自体は素晴らしいのだが、アルバム全体を通して聞くと、ロックのカタルシスを得ることができないのだ。
 ただ、このアルバムはセールス的には大成功で、アルバム・チャートでは全英1位、全米7位を記録した。歪んでいるのは、私の感性なのかもしれない。

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2020年3月 2日 (月)

ルイス・キャパルディ

 この手の音楽って、欧米人は大好きなんだなあ、そんなことを考えながら初めて彼のアルバムを聞いてみた。"彼"というのは、スコットランド出身のシンガー・ソングライターであるルイス・キャパルディという人だ。個人的な感想としては、"第二のアデル"か、もしくは"第二のサム・スミス"だろうか。

 欧米人は、特に、アメリカ人は、こういう音楽を聞いてゴスペルを想起するんじゃないかな、曲の雰囲気やたたずまいは、これはもう立派な教会音楽でしょう、足りないのは"コール&レスポンス"だけのような気がする。
 一方、イギリス人はこの手の音楽を心のどこかで待ちわびているような気がする。国民性といっていいのかわからないけれど、どっかで内省的というか、自己を見つめる視点というか、マイナーな調べに乗って生活を振り返るような、そんな気分にさせられるし、そういうひと時を望んでいるのかもしれない。

 だってイギリスは島国だし、外から攻められる危険性は少ないわけで、そうなると自分たちの人生や生活にどうしても目が行くわけでしょ、だから、仕事が終わるとパブに行っては音楽を聴きながらバカ騒ぎ?をすることもあるわけで、たまに騒いで、でもいつもというわけではなく、やはり時々、自分の人生を見つめ直すんじゃないかな。

 それにイギリスは階級社会だし、労働者階級の人は、本人が意識してそこから抜け出そうとしない限り、死ぬまで労働者階級に留まるわけで、そうなったら騒いで憂さを晴らすか、諦観というか、「明日は明日の風が吹くさ」というあきらめにも似た感情がどこかに渦巻いているような気がする。普段は表に出さないけれど、ある時フッとそういう気持ちが表に出て、こういう音楽を聴きたくなるのかも。自分はイギリス人じゃないけれども、自分がそういう社会で暮らしているのであれば、そう思ってしまうだろう。

 そんなことはどうでもいいんだけど、ちょっと気になったので、この手の音楽の流れを見てみると、次のような感じになると思う。
アデル       ・・・2006年デビュー、当時18歳、売れ始めたのは2008年、20歳の時
エド・シーラン   ・・・2004年デビュー、当時13歳、売れ始めたのは2011年、20歳の時
サム・スミス    ・・・2007年デビュー、当時15歳でも売れ始めたのは2012年、20歳の時
ルイス・キャパルディ・・・2017年デビュー、当時21歳あっという間に人気に火がついてしまった

 こうやってみると、上の3人は、みんな若い時から歌っていたり、演奏していたりと、それなりに下積みがあるというか、頑張っていたんだなあということがわかるけど、ルイス・キャパルディの場合は、いきなり売れてしまったという感が強いんだ、これってやっぱりネットの影響のせいだろうね。
 彼の場合は、自宅で録音していた曲をYouTubeなどでアップしていたところを見つけられて、レコード契約がないのに2017年3月にシングルを発表していて、その後デジタル配信になり、続けて違うシングルを発表して世界的に売れてしまったみたい。今はもう誰でもミュージシャンになれる時代になってしまった。

 となると心配になるのが、いわゆる"一発屋"というレッテルが貼られることなんだけれども、たぶんもう少し売れるんじゃなかな、そんな気がする、根拠はないけれど。たとえば、ジェイムズ・ブラントなんかは2005年に"You're Beautiful"が世界中でヒットしたけど、その後はメジャーな扱いはされなくなったよね、でも、コンスタントにアルバムは発表しているし、"You're Beautiful"のようなキャッチーな曲はないけど、シングルやアルバムはチャートの上位に顔を出している。きっと根強いファンがいるんだろうと思うけど、ルイス・キャパルディもそんな感じがするんだ。

 彼はシンガー・ソングライターの扱いなんだけど、1970年代のシンガー・ソングライターというのは、本当に自作自演で、ひとりで曲を書いて、歌って、演奏して、場合によってはアルバムのプロデュースもしたりと、文字通りの"自作自演歌手"だった。でも、今のシンガー・ソングライターというのは、アデルやエド・シーランの場合を見ればわかるように、バックに強力なサポート体制があるんだよ。

 ルイス・キャパルディの場合もニック・アトキンソンやエド・ホロウェイ、エミリー・サンデーを手がけたEMSというプロデューサー集団がバックアップしていた。これはもうほぼ完璧な支援体制じゃないだろうか。それだけ才能に恵まれているというか、可能性を秘めていると見込まれたわけだから、ルイスも大変だと思う。

 だから、そのサポート体制が維持されている限りは、ルイス・キャパルディは売れ続けるし、それなりに人気も保っていけると思う。基本はルイス・キャパルディの場合も自分で曲を書いているんだけど、やっぱり曲はアレンジされるんじゃないかな。それがどの程度なのかはわからないけれど、今はいいけど、サポート・チームが口をはさみ過ぎると、彼も嫌になるだろうし、ミュージシャンとしてのプライドもあるだろうし、素直にアドバイスを受け入れられなくなる時が来るかもしれない、そういうときに、どうなるんだろう。

 ミュージシャンとしてのプライドが肥大化してしまえば、傲慢になる場合もあるだろうし、そうなったらサポート体制もなくなるかもしれない。それに、今の音楽業界って厳しいから、セールスが下降してしまうと、すぐにほかの売れそうな新人ミュージシャンやバンドを探してくるだろう。音楽の質よりも話題性が先行しているからね。そうなったら厳しくなるだろうなあ。

 それにイギリスって流行に敏感というか、流行のサイクルが早いから、そんな中で人気を保っていくのは大変だと思う。パンク・ロックなんかあっという間に終わってしまったし、ヒットを飛ばして売れたバンドもやがては解散してしまう。90年代のブリット・ポップ時代のブラーやオアシスがいい例だよね。

 逆にいえば、そんな中で生き残ってきたミュージシャンやバンドは世界的に有名になっていくのだろう、U2やレディオヘッド、コールドプレイなんかはそうだよね。共通点は、楽曲の良さと微妙に変化球を入れるところだろう。同じ傾向の音楽をやれば、たちまち飽きられると思っているから、音楽的方向性をアルバムごとに替えていくんだろうね。ストーンズなんかは基本はロックで、アメリカ南部のブルーズなんかをルーツに持っているけど、ロック一辺倒じゃなくて、ブルーズっぽい曲やソウルフルな曲、ディスコ調の曲まで取り入れるんだから、それだけの懐の深さが必要だと思う。
 ルイス・キャパルディの場合も、そういうキャパシティの広さを発揮してほしいね。"キャパルディ"じゃなくて"キャパシティ"に変えればいいかも、冗談だけど。

 彼の場合は、もちろん曲がいいというのは当然としても、声が印象的というか、けっこう野太いんだよね。見かけは若いし、清潔感があって、そんな感じには見えないんだけれど、声は綺麗じゃない、特に、声を張り上げて歌うときは少しザラツキ感があるんだ。でもそれがまた印象的で、心に染み入ってしまうんだよね。こればっかりは才能というよりは、持って生まれた天賦の才のようなものなんだろうね。この声がある限りは、彼は売れると思う。

 それに、体型がまた面白くて、見かけと歌のギャップがあっていいんだと思う。デビュー時のアデルのようだね。あそこまで体型は太くないけど、スマートでダンディというわけじゃなくて、もっさりとしてちょい太というところがいいのかもしれない。これが痩せたら逆に人気が無くなるかも。
 それにSNSで発信されるメッセージもユニークで面白いと評判がいいようだし、PVもちょっと変わっているし、そのギャップがいいんだろうね、いろんな意味で。今は注目されているから、彼の一挙手一投足が話題になるんだけど、やっぱりシンガーなのだから歌で勝負してもらいたいし、いい曲を、みんなの記憶に残るような曲を末永く歌ってほしいと思う。

 彼はスコットランドのグラスゴー出身で、9歳の時にギターを買ってもらい、11歳から曲を書き始め、パブなどで歌い始めたらしい。17歳から本格的に音楽活動を始めたようで、やはり自分のキャリアを自覚して、それに賭けたのだろう。それはやはり作曲能力と自分の声の素晴らしさに気づいたからに違いない。11歳の時に書いた曲が"The Show Must Go On"というタイトルだったというから、その時点で彼の人生は約束されたものになったに違いない。

 最後に、具体的な数字を示して、彼の今までの音楽的成果を確認したいと思う。2017年に発表したデビューEP「ブルーム」は、全世界で1億2000万回以上もストリーミング再生された。そして2018年に出されたシングル"Someone You Loved"は、全英シングル・チャート7週連続首位に輝き、全米でも1位になっているし、世界19カ国でプラチナ・シングル・ディスクに認定された。

 この曲を含むデビュー・アルバム「ディヴァインリー・アンインスパイアード・トゥ・ア・ヘリッシュ・エクステント」は、2019年5月に発表されて、すぐさま初登場全英1位になり、通算6週間1位を獲得した。しかし、いったん首位から陥落したものの、今年になっても人気は衰えず、先月、再び首位に返り咲いている。
 日本では約半年遅れでこのアルバムが発表されたが、セールス的にはどうなんだろう。イギリスでは、デビュー・アルバムを発表する前からアリーナクラスのツアーが企画され、チケットは約1秒で完売したという。願わくば、商業主義に毒されずに、その豊かな才能を最大限発揮しながら、納得の行くまで自分の音楽的キャリアを追求していってほしいものである。

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2020年2月24日 (月)

ギルバート・オサリバン

 突然、ギルバート・オサリバンについてコメントをしたくなった。なぜだかわからないけれど、急にアルバムを引っ張り出してきて、聞いている。よく考えたら、このブログも始めてから13年になった。バンドやミュージシャンについても、1200以上は項目として存在している。その中でも、ギルバート・オサリバンについて直接言及した項目はなかった。あれだけ有名なミュージシャンにもかかわらず、触れていないのはいったいどうしたことだろうか。

 今の新しい人にはよくわからないだろうけれど、1970年代初頭のギルバート・オサリバンといえば、ポール・マッカートニーやジョン・レノンくらい有名だった(と思う)。少なくとも、同じイギリス系のエルトン・ジョンと並び称されるくらいヒット曲を出していた。これは間違いないだろう。今でも時々、日本のTVコマーシャルやバラエティ番組などでも彼の曲は使用されている。きっと、50歳代の番組プロデューサーなどは子どもの頃によく聞いていたのだろう。だから、大人になってある程度自分の権限が及ぶ範囲では、彼の曲を使用したりするのだろう。

 自分が初めてCDを購入したのは1986年頃で、その時のアルバム・タイトル名は「アローン・アゲイン」だった。もちろんギルバート・オサリバンのシングル曲の名称であり、このCDは彼のベスト・アルバムだった。だからギルバート・オサリバンには思い入れが深いのである。
 また、このベスト・アルバムのキャッチコピーには、こう書かれていた。「時代を越えた鮮烈な輝きが、今、また音楽シーンに新たな光明を投げかける '60年代、'70年代の若者には懐かしさを!'80年代の若者には、新鮮な衝撃を

 このアルバムには、ライナーノーツが付いていて、その中で来生たかお氏は、「オサリヴァン無くして、今の僕は存在しなかっただろう」とまで言い切っていた。来生氏は、ギルバート・オサリバンの影響でピアノを弾くことを決心し、音楽的姿勢や詩、そして格好まで傾倒してしまい、銀座で服も似せて作ったようだ。銀座で服を作るというところがセレブだが、それほどギルバート・オサリバンにのめり込んでいたのだろう。

 さらに杉真理氏は、「彼がいなかったら'70年代は何と味気ないものだっただろう。"Alone Again"こそ、一番心を動かされた曲だ」と述べていた。日本のポップ職人もこう言っているのだから、如何に当時のギルバート・オサリバンの人気や実力がすごかったかがわかると思う。そして極めつけは湯川れい子嬢で、「'72年'73年は名曲の生まれた年ですが、その中でも"Alone Again"のインパクトは群を抜いている」と書いていた。音楽評論家で詩人でもある湯川れい子嬢もこのように述べているのだから、これはもう折り紙付きというものだった。

 また、ギルバート・オサリバンの声も特徴的だった。グレッグ・レイクのような深みはなく、ジョン・アンダーソンのように甲高くもない。そして、エンゲルベルト・フンパーディンクのような渋みもないのだが、ややキーが高くて、どこか甘くてマイルド、バラードでもテンポの速い曲でも、一度聞いたら忘れられない、あっギルバート・オサリバンの声だとすぐにわかるのだ。だから子どもの頃はラジオから彼の曲が流れてくれば、すぐにわかったものだった。

 自分が買った彼のベスト・アルバムには14曲が収められていた。曲はおもにデビューから1977年頃までの彼の代表曲を集めているようだ。1曲目はご存じ"Alone Again"で、続いてアップテンポの"Get Down"、ちょっとジャージーな雰囲気を漂わせている"Ooh Baby"と続き、4曲目が"Nothing Rhymed"だった。この"Nothing Rhymed"という曲は1970年の10月に発表されていて、ギルバート・オサリバンの英国での最初のシングルだった。チャート的には英国では8位、オランダでは1位を記録している。また、この曲が収録された彼のデビュー・アルバム「ヒムセルフ」は、全英アルバム・チャートで5位になり、86週にわたってチャートインするなど、記録的なヒット作品になった。ここから彼の栄光の歴史が始まったのである。

 ちなみに大ヒットした"Alone Again"は1972年の作品で、全英、全米ともに1位を記録し、アメリカではグラミー賞にもノミネートされていた。彼の代表曲の一つで、内容的には両親の死や婚約者にふられた孤独感などが含まれている。ただ、これは彼の自伝的なものではなく、確かに彼の父親は彼が11歳の時に亡くなっているのだが、母親はまだ健在だったし、この曲を書いた時はまだ21歳で、婚約者にもふられてはいなかった。21歳の若者がこれほど老成した曲を書いたのだから大したものである。

 同じ1972年の作品が"Ooh Wakka Do Wakka Day"で、このシングルは全英8位まで上昇している。当時のアルバムには未収録曲だったが、21世紀になってからセカンド・アルバムのリマスター盤「バック・トゥ・フロント」に収められた。このアルバムには"Clair"という曲も収められていて、シングル・チャートでは全英で1位、全米では2位を記録している。曲の最後に子どもの笑い声が入っていて、てっきりこれはギルバート・オサリバンの子どもの声だろう、スティーヴィー・ワンダーの曲のアイデアをパクったのだろうと思っていたら、この曲の方が早くてスティーヴィー・ワンダーの方が後からだった。だからといって、スティーヴィー・ワンダーがパクったとは言えないだろうけれど。
 そんなことはどうでもいいのだが、この"クレア"という人は、ギルバート・オサリバンのプロデューサーだったゴードン・ミルズという人の3歳の娘のことを歌っているもので、当時のギルバート・オサリバンとゴードン・ミルズは、家族ぐるみの付き合いをしていたということがこれでわかると思う。

 また、ベスト盤にある"Who Was It?"は、この「バック・トゥ・フロント」にある"With You Who Was It?”のことだろう。曲の時間的にもほぼ同じなので、同名曲だと思われる。シングル・カットはされていないので、チャート・アクションの記録はない。

 "Ooh Baby"と"Get Down"、"A Friend of Mine"は、1973年に発表された彼の3枚目のアルバム「アイム・ア・ライター、ノット・ア・ファイター」に収められていて、のちの2012年のリマスター盤には"Why Oh Why Oh Why"も収録された。
 この中で一番印象が強いのは、"Get Down"で、名バラード曲だった"Alone Again"だけでなく、こういうアップテンポでロック的な曲(全然ロック調ではないのだけれど、当時はそんな印象だったのだ)も作って歌うことができるんだと驚いた記憶がある。つまり彼は、"一発屋"ではなかったということだ。当時はそんな言葉は知らなかったけれど、彼の才能というか曲のバラエティの豊かさに感動していた。

 "Get Down"はもともとは、ギルバート・オサリバンのピアノの練習曲で、イントロの部分しかなかったのを彼が曲としてまとめたものであり、ガールフレンドの犬の調教用としての言葉(「おすわり」)について歌っている。内容的にはそんなシリアスなものではないのだが、自分にとっては何か重要なことのように思えて、英語の辞書で意味を調べたのだが、よくわからなかった思い出がある。ちなみにチャート的には、全英1位、全米7位を記録している。

 1974年に発表されたアルバム「ア・ストレンジャー・イン・マイ・オウン・バックヤード」には甘いストリングス付きのバラード曲"If You Ever"が収められていて、この2012年のリマスター盤には"Happiness is Me And You"がボーナス・トラックになって入っていた。この後者の曲にもストリングスが付随していたから、この頃のギルバート・オサリバンはほぼイージーリスニング化していたようだ。
 アルバムのエンジニアには、ポール・サイモンやビリー・ジョエルなどを手掛けたフィル・ラモーンの名前がクレジットされていたから、ひょっとしたらそんなことも関係していたのかもしれない。アルバム・チャート的には全英19位、全米62位だった。前年に発表されていたシングル"Ooh Baby"が全英18位、全米25位だったから、このあたりから徐々にチャート・アクションのキレが鈍くなってきたようだ。

 また、この年のクリスマス用シングルとして、文字通りの"Christmas Song"という曲も発表されている。全英12位、アイルランドでは5位、全米ではチャートインしなかった。欧米ではクリスマス・シーズンにクリスマス・ソングを発表するシンガーやバンドは、世間から一流と認められているという暗黙の了解があるようで、そういう意味では、ギルバート・オサリバンもまた一流ミュージシャンとして認知されていたのだろう。

 翌1975年には"I Don't Love You But I Think I Like You"という曲が発表されている。この曲は、彼にとっては珍しくブラスも使用されており、ギターにもディストーションがかかっているほど、かなりハードな楽曲だった。チャート的には全英14位、アイルランドでは7位と何とか健闘している。また、"Miss My love Today"は、マイナー調のちょっとダークな雰囲気の曲。そのせいか英国でも米国でも、そして母国アイルランドでもチャートインを逃している。1977年のアルバム「サウスポー」に収録されていて、この曲を含むアルバム全体をギルバート・オサリバン自身がプロデュースしていた。

 実は、上にもあったように、ゴードン・ミルズはトム・ジョーンズなども手がげるほどの有能なプロデューサーであり、ギルバート・オサリバンもゴードン・ミルズの娘を題材に曲を書くなど、当初は良好な関係を築いていたのだが、徐々に悪化していった。金銭関係が原因とか、ギルバート・オサリバンの独立問題のせいだとかいわれているが、詳細は不明だった。ただ確かなことは、ギルバート・オサリバンも人間不信に陥ってしまい、本来の音楽活動に専念できずに音楽活動から遠のいていったという事実だ。それが1970年代後半からで、チャート・アクションもそれを証明しているみたいだった。

 ギルバート・オサリバンはアイルランドで生まれたが、7歳の時にイギリスに引っ越して生活を始めた。大学生の時に、"リックス・ブルーズ"というバンドに所属してドラムスを担当していた。このバンドのリーダーは、のちにスーパートランプで活躍したリック・デイヴィスであり、バンド名もそこから来ている。リックはギルバート・オサリバンに、ドラムの演奏方法やピアノの弾き方などを教えたそうだ。何となく結びつかないのだが、才能のある人同士は、お互いに磁石のようにひかれあうのだろう。

 彼の世界的な名声は70年代の後半に終焉していったが、一時遠ざかっていたものの、音楽的活動はその後再開していて、2018年には「ギルバート・オサリバン」というオリジナル・アルバムを発表している。彼にとっては19枚目のスタジオ・アルバムにあたるもので、英国のアルバム・チャートでは20位を記録した。これは、ベスト盤を除いては約40年ぶりにチャートインしたアルバムになった。

 現在73歳のギルバート・オサリバンである。プロデューサーとの確執がなければ、もっと多くのヒット曲を生み、もっと多くの人気を獲得して、今でもなおライヴ活動にいそしんでいたかもしれないほどのミュージシャンだった。ちょっと残念なところはあるけれど、それでも70年代の彼のヒット曲は、いまだに色褪せない。そして年がたてばたつほど、その輝きはより一層光を増すように思えてならないのだ。

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2020年2月17日 (月)

ザ・ミスティーズ

 昨年の秋に発表された新作を紹介する。これが今どき珍しい超弩級ポップ・ソング・アルバムだからだ。ザ・ミスティーズという名前なのだがバンドではなく、ヨハン・ステントープというスウェーデン人がやっているプロジェクト名だった。プロジェクトといっても、メンバーが流動的とかバンド名にこだわっているとかいうのではなくて、彼一人で作詞、作曲、アレンジ、プロデュースにミキシング、もちろんすべての楽器も手掛けていて、要するにワンマン・プロジェクトなのである。

 それなら別にバンド名っぽくするのではなくて、個人名で発表すればいいのにと思うのだが、彼曰く、バンド名が欲しかったのはその手の音楽だと思ったから、ということらしい。さらに、まだ使われていない名前を見つけるのは難しくて、ポップな響きのする名前を考えていたら"ザ・ミスティーズ"になったという。

 彼は、80年代から活動をしているマルチ・ミュージシャンで、1983年にプラズマというバンドのキーボード・プレイヤーとしてプロ・デビューしている。バンドは1984年に解散したが、翌年にはタイム・ギャラリーというバンドを結成してアルバムも発表した。タイム・ギャラリーは、大物プロデューサーのキース・オルセンの目にとまって、アトランティック・レコードと契約もしていた。順調に活動も進んでいくと思えたのだが、残念なことにセールス的に振るわず、1992年に2枚目のアルバムを発表したあと解散している。

 そのあとヨハンは、スタジオ・ミュージシャンとして活動していくのだが、高校時代の同級生だったパール・デヴィッドソンという人と一緒にトランポリンズというユニットを結成して活動を始めた。ユニットは4人組のバンドへと発展して3枚のスタジオ・アルバムを発表していて、折からのスウェディッシュ・ポップ・ブームの波にものり、日本でも注目を集め、来日公演も果たしている。
 トランポリンズ自体は、3枚のアルバムを残して1999年に解散してしまうのだが、母国スウェーデンではもちろんのこと、日本やヨーロッパではセールス的にも好調で知名度的は高かった。

 その中心人物だったヨハン・ステントープの好きなバンドやミュージシャンは、デヴィッド・ボウイやクィーン、10ccにスーパートランプ、ザ・クラッシュなどの70年代から活躍しているバンドやミュージシャンであり、さらにはエルヴィス・コステロ、クラウディッド・ハウス、ドッジー、XTCなどの80年代、90年代のバンドなどにも及んでいて、まさにポップ・ミュージックの博覧会のような感じだ。また、どちらかというと英国中心であり、どこかひねくれたポップ・ミュージックを志向しているようである。

 ヨハンはまた、スクイーズやジェリーフィッシュもフェイヴァリットに挙げているのだが、やはりザ・ビートルズが始まりのようで、中でもジョージ・ハリソンの曲には思い入れが深いという。"Here Comes The Sun"や"Something"はレノン&マッカートニーの曲にも匹敵すると言っていて、そんなことはいまさら言わなくても誰でもわかることだろうとツッコみたくもなる。ただ敢えてジョージ・ハリソンの曲が好きというところに、ヨハン・ステントープの個性というか原点があるような気がする。

 原点といえば、ヨハンが音楽にのめりこむきっかけになったのは、ディープ・パープルの「イン・ロック」を聞いてからで、何故かイアン・ペイスに憧れて11歳でドラムを始めたらしい。普通はリッチー・ブラックモアに憧れてギターを始めるんじゃないかな、もしくはイアン・ギランのようにシャウトしたいとか。それがイアン・ペイスなのだから、やはりヨハンはちょっと違っている。

 そこから始まり、曲作りをするようになってドラムからキーボードに転身した。また、父親からはクラシック、8歳上の兄からはアリス・クーパーからシカゴ、キャンド・ヒートなどのアメリカン・ロック、ピンク・フロイドにジェネシスやイエスのプログレ系、ブラック・サバスやユーライア・ヒープ、シン・リジィなどのハード・ロック系、キャット・スティーヴンス、ニール・ヤング、レオ・セイヤーなどのシンガー・ソングライター系など、幅広いジャンルのレコードを聞いていてその影響を受けている。これらの音楽をひとくくりにすることはあまり意味はないかもしれないが、基本的には70年代の音楽が中心で、メロディーがはっきりとしているバンドの曲が多いようだ。だから最終的に、ポップ・ミュージックを志向するようになったのだろう。

 そんなヨハンの、いや間違えたザ・ミスティーズのアルバム「ドリフトウッド」は、当初40曲余りが準備され、それらを絞り込んで25曲くらいレコーディングをしている。そして最終的に残ったのは12曲だった(国内盤ではボーナス・トラック付きで15曲)。
 タイトル名の「ドリフトウッド」とは流木のことで、彼が住んでいる近くにビーチがあって、時々散歩をするという。散歩をしながら曲のアイデアやメロディーが浮かんできて、それを集めてこのアルバムを作ったようだ。それが浜辺に打ち上げられた流木を集めるような感じだというので、タイトル名になったらしい。

 1曲目の"Good Things"から弾けるようなメロディを聞くことができる。この曲では、ヨハンはフリートウッド・マックを意識しているようだが、80年代のフリートウッド・マックよりもポップである。"Your Heart is Bigger Than That"はアメリカのパワー・ポップのバンドの曲のようだ。ウィーザーとかファウンテン・オブ・ウェインとかのややスローな曲を思い出させてくれた。

 "Calling Out!"は80年代のニュー・ウェイヴのサウンドを意識したようなのだが、聞いていてあまりそんなことは感じられなかった。基本的にはどの曲もそうだけど、シンセサイザーなどの電子音楽機器は目立っていないし、性急なビートの曲もない。この曲もテンポは軽快で、聞かせるパワー・ポップの曲になっている。ヨハンは1時間くらいで仕上げて、曲のアイデアが新鮮なうちにレコーディングを行ったという。

 "That in Not What Friends are For"は2分58秒と短い曲だけれど、かなり時間がかかって作られたようで、苦労したらしい。途中で何回か転調しているし、シンプルながらもピアノやギターの短いフレーズも挿入されていて、シンプルな曲のようで複雑な構成なのが分かる。職人技のようなポップ・ソングだ。

 "Face the Sun"もミディアム・テンポのポップ・ソングで、メインのボーカルに対するコーラスの被せ方やメロディが印象的だ。この曲も時間をかけてじっくりと熟成させた感がある。よくできた曲だと思う。"I Fall Back into Your Arms"は冒頭の"Good Things"のように軽快な曲で、サビの部分のメロディがいい。声がファルセットになるところなんかは最高だと思う。ヨハンの知り合いの変な作曲家についてのお話らしい。本人は自分自身のことではないと言っているけれど、でもおそらくは少し自分のことも入っているに違いない。

 "How it Ends"は2分程度で曲名やアイデアが浮かんだ曲で、ヨハンが蚤の市で購入した1936年製のアコースティック・ギターで作曲したもの。この曲もミディアム・テンポの曲で、曲自体は良いものの、同じようなテンポの曲が並ぶと平凡な印象になってしまいがちなので、この辺でバラード系の曲が欲しかった。このアルバムのマイナス点を探すと、同じような傾向の曲が並べられているという点だろう。だから途中で聞き慣れてしまうのだが、1曲1曲の水準はものすごく高いので、高水準のポップ・ソングが並んでいますよという感じだ。だから逆に言えば、非常にもったいないのである。

 8曲目の"Blue Sky Thinking"は、アルバムのレコーディングの終わりの方で出来た曲。この曲もテンポは前の曲と同様なのだが、曲のフックというか曲名のリフレインが耳に残った。そして、やっときましたバラード系が、"Everything We were"なんだけど、このアルバムの中でも数少ないバラード曲で、途中のウーリッツアー社製のエレクトリック・ピアノのソロなんかは曲にピッタリハマッていた。また突然終わるエンディングも効果的だと思った。

 一転してノリノリの"Over And Over Again"が始まる。こういうアルバム構成はいいと思う。アルバムの前半は同傾向の曲が目立つが、後半ではバラエティに富んでいて、リスナーを飽きさせない工夫がある。ほかの曲もそうだけど、この曲は特にシングル・カットしても売れるんじゃないかなと思わせる。
 
続く"Halfway into A Storm"では犬の鳴き声のSEが入り、ミディアム・テンポのアコースティック・ギターからボーカルが導かれる。ヨハンは楽器が近くになくて、頭の中で書いた曲だと言っていた。途中で転調も入り珍しくシンセサイザーやオルガンのソロも聞くことができる。これもみんな頭の中で構想したのだろうか。やはり彼は、常人とは違う才能を有しているようだ。

 "I'm A Winner"もメロディアスな曲で、人生での成功を夢想している人物のことを歌っていて、ヨハンは自分のことだとはっきりと述べていた。それはともかく、この曲にも転調があってそれが効果的だ。曲の最後がフェイド・アウトしていたので、出来ればきっちりと終らせてほしかった、一応この曲がラスト・ソングになるわけだから。

 13曲目からは国内盤におけるボーナス・トラックになっていて、"If Push Comes to Shove"はイギリスのポップ・ロック・バンドのスクイーズに対する敬愛の気持ちを込めて作られたもの。アップテンポで、何となくそんな感じに聞こえてくるから不思議だ。グレン・ティルブルックとクリス・ディフォードが聞いたらきっと喜ぶだろうな。

 "Where were You?"はミディアム・テンポの曲で、中間の部分はヨハンがイギリスのバンドのプリファブ・スプラウトを意識して書いたらしい。短いながらもアカペラのパートもあって、それなりに楽しんで作った様子が伝わってくる。ただ、どこがプリファブ・スプラウトだったのかはよくわからなかった。

 最後の曲は、"The Last of The Mohicans"というもので、彼が子どもの頃に見た映画や読んだ本をもとにして作った曲。曲自体はずいぶん前に作られていて、未完成のままに放っておかれていたのを、今回、曲としてまとめたもの。リズムが少し重くて、このアルバムの全体の印象とは少しかけ離れている。だからボーナス・トラックにしたのだろう。メロディ自体は優しいものなのでポップ・ソングの範疇に入るだろうが、何となくザ・ビートルズの「リボルバー」時期のアウトテイクといった感じか。少し軽めのアウトテイクだろう。

 ヨハンは10年以上もプロデューサーやソングライティングなどの裏方の仕事をしてきて、このたび久しぶりにアルバムを発表した。このアルバムが売れれば、これからはミュージシャンとして表現活動に打ち込むかもしれない。彼は、今回アルバムを発表するにあたって、インタビューでこのように述べていた。『2019年の最先端の曲も、20年前から30年前の最先端の曲も、人の心を動かす構造は同じだと思う。もちろん、時代とともに音楽スタイルは変化しているけれど、いつの時代でも変わらない何かが確実にあって、その本質の部分に触れる音楽こそが、音楽好きのリスナーの心をつかむことができるんだ』ヨハンにはもう少し頑張ってもらって、これからもアルバムを発表してほしいと願っている。

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2020年2月10日 (月)

クラウディッド・ハウス

 クラウディッド・ハウスは、オーストラリアのバンドだ。3人組で、いわゆるギターにベース、ドラムスと最もオーソドックスなバンド構成だった。中心人物は、ギター&ボーカルのニール・フィンという人で、ほとんどの曲が彼によって作られていた。
 ただし、オーストラリアのバンドといっても、ニール・フィンはニュージーランド人で、それ以前に在籍していたバンドのスプリット・エンズが解散したので、お隣のオーストラリアに移ったというわけだった。

 自分はスプリット・エンズのアルバムはもっていないけれども、当時のラジオやMTVのビデオで視聴したことがあって、ポップで耳になじみやすい楽曲をやっていた覚えがある。そのメンバーだったニール・フィンが結成したバンドだったから、これまたスプリット・エンズのような音楽をやるのだろうと期待していたら、その通りになったので驚いた記憶がいまだに残っている。

 当時というのは、1980年代の初めの頃で、スプリット・エンズが1984年に解散したから、それ以降のお話だ。ちなみにニール・フィンには兄がいて、彼がスプリット・エンズを始めたようなもので、弟のニールが後から加入している。兄の名前はティム・フィンといって、ニールより6歳年上だった。

 それはともかくとして、彼ら兄弟は子どものころから音楽に親しんでいたようで、話によると、母親が自分の家で友人を招いてパーティーを開いた時にはいつもピアノを弾いて盛り上げていたらしい。そして、子どもに向かって歌を歌うように言ったり、楽器を使って演奏するように仕向けさせたようだ。また、アイリッシュ・ミュージックからマオリ人の音楽まで、幅広く聞かせて音楽的な環境を整えて言ったという。別にミュージシャンにするつもりはなかったようなのだが、とにかく音楽好きの家系だったのだろう。

 ニールやティムの人気は日本ではあまり感じられないのだが、オーストラリアやニュージーランドでは絶大なる人気を誇っており、地元のARIA賞では何回も受賞しているし、オーストラリアのホール・オブ・フェイムの殿堂入りも果たしている。それに兄弟で"フィン・ブラザーズ"
という名前でアルバムも発表していた。
 また、スプリット・エンズやクラウディッド・ハウスにおけるレコード・セールスやアドバタイズメントにより、オーストラリアやニュージーランドの国威高揚に貢献したとして、大英帝国勲章も受賞している。だからこのフィン兄弟は、日本では考えられない程の知名人なのである。

 それで、ニールがオーストラリアにわたって結成したクラウディッド・ハウスだが、ドラムス担当のポール・へスターは、スプリット・エンズに在籍していた最後のドラマーだった。ニールが連れてきたのだろう。ただ彼は、スプリット・エンズやクラウディッド・ハウスで大成功を収めたものの、バンドが解散してからは精神的に参ってしまったようで、46歳の若さで自殺してしまった。まだ5歳と10歳の娘がいたというのに、残念なことである。

 バンドは、1986年にデビュー・アルバム「クラウディッド・ハウス」を発表した。全11曲ながらも38分という短さだったが、内容的にはどの曲も瑞々しい勢いとフレッシュな若さが詰め込まれていて、今聞いても全く違和感はないほどだ。
 1曲目の"Mean to Me"は、ニュージーランドに昔あった街のことを歌っていて、このアルバムからの第1弾シングルだった。アコースティック・ギターから始まり、途中からブラスも加わって陽気な曲調になっていく。このあたりはプロデューサーのミッチェル・フルームのアドバイスに違いない。

 続く"World Where You Live"は、このアルバムからの第2弾シングルだった。この曲もミディアム・テンポながらも転調が多くて、キーボードの装飾というか効果音が目立つ。最初の曲よりもいくぶんロック調で、ハードな感じがした。
 "Now We're Getting Somewhere"では、ジム・ケルトナーが太鼓をたたいているし、ベース・ギターもニコラス・セイモアではなくて、ジェリー・シェフというミュージシャンが担当していた。これもプロデューサーのミッチェル・フルームの示唆だろうか。曲自体もアメリカ南部の影響を受けていて、オルガンやアコースティック・ギターが目立っている。何となくザ・バンドの音楽をよりポップにしたような感じだ。このアルバムからの3枚目のシングルになった。

 4曲目の"Don't Dream It's Over"のおかげで、このアルバムは世界中で売れたと言ってもいいだろう。このアルバムからの4枚目のシングルになったこの曲は、まるで夢に誘うかのような魔法みたいなバラードで、米国のビルボードのシングル・チャートでは2位まで上昇した(1位はアレサ・フランクリンとジョージマイケルのデュエット曲だった)。途中のキーボードのソロとギターの調べが印象的でもある。また、カナダやニュージーランドではチャートの首位を獲得したが、なぜかオーストラリアでは8位止まりだった。

 "Love You 'till The Day I Die"は叫び声から始まるエキセントリックな曲で、ちょっと実験しているよなという感じがした。リズム面が強調されていて、キーボードの(当時流行ったフェアライトか?)装飾音が目立っている。
 続く"Something So Strong"は、5番目にシングル・カットされた曲で、これまた大ヒットとなった。ニール・フィンとプロデューサーのミッチェル・フルームとの共作で、実に軽快で明るく、快い気持ちにさせられる曲だ。ニュージーランドではチャートの3位になり、米国のビルボードでは7位まで上がった。ちなみにオーストラリアでは18位だった。

 "Hole in the River"はニールと元スプリット・エンズのキーボード奏者だったエディ・レイナーとの共作曲で、ミディアム・テンポながらもニールの力強いボーカルを聞くことができる。途中でブラスやキーボード・ストリングスが入ったりするが、基本はロック調の曲だ。エンディングはブラスとキーボードの融合で幕を閉じていく。
 "Can't Carry On"も同様な曲だが、こちらの方が曲の構成がすっきりしているし、メロディアスだ。クレジットを見ると、この曲だけプロデュースが先ほどのエディ・レイナーになっていた。一世を風靡したスプリット・エンズの曲を思い出させてくれた。

 "I Walk Away"はそのスプリット・エンズの曲で、1984年の彼らのラスト・アルバム「シー・ヤー・ラウンド」に収められていたもの。この曲でもニールの力強いボーカルを聞くことができるのだが、スプリット・エンズというバンドから離れて、ソロとして活動していくという決意が込められていたからだろう。ロック調だが聞きやすい。メロディが優れているからなのか。ちなみに、発売当初はアルバムに収録されていなくて、のちになって収められた。
 "Tombstone"はアコースティック・ギターのコード・ストロークから入るが、もちろんフォーク調ではなくて、これまたポップン・ロールといった感じの曲だ。シングル・カットはされなかったけれど、されてもおかしくない曲だろう。

 最後の曲"That's What I Call Love"はドラムス担当のポール・へスタートの共作曲。ポールの影響からか、リズムが強調されていて、この時代特有の跳ねるようなベース音や打ち込みのようなドラム・サウンドが目立っている。途中でセリフが入ったり、キーボードのサウンド・エフェクトが強調されたりと、やや実験的な作風だ。でも今となっては懐かしいし、当時を知らない人にとっては、逆に新鮮に映るのではないだろうか。

 クラウディッド・ハウスは、このあと3枚のアルバムを発表し1996年に解散したが、そのあと再結成をして2枚のアルバムを出している。現在も解散はしていないようで、新しいメンバーでライヴなどを行っているようだ。もちろん中心はニール・フィンだが、なぜか彼は2018年のフリートウッド・マックのツアーに、リンジー・バッキンガムの代わりにギタリスト兼ボーカリストとして参加していた。もちろんフリートウッド・マックには加入しないのだろうが、白羽の矢が当たったということは、それだけ人気と実力を兼ね備えているということだろう。

 自分にとっては、決して過去のバンドとは思えないクラウディッド・ハウスである。できれば、それ以前のスプリット・エンズのアルバムからじっくりと聞き直したいと考えているのである。

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2020年2月 3日 (月)

ディキシー・チックス

 最近聞いたアルバムの中で、印象に残ったものを紹介しようと思った。まずは、このアルバム「テイキング・ザ・ロング・ウェイ」、制作者はアメリカ人の3人娘、ディキシー・チックスである。彼女たちの2006年のアルバムで、4枚目のスタジオ・アルバムになる。

 もう今から14年も前のことになるのだが、彼女たちのことを知ったのはアルバムの宣伝でも雑誌での紹介でもなく、テレビのニュースからだった。メンバーの一人が当時の大統領だったブッシュ氏と同郷のテキサス出身であることを恥ずかしいと述べたことで、彼女たちのアルバムの不買運動やブルドーザーによる破壊などの激しいバッシングに合っているということが話題に上がっていたのだ。(当時のことを知らない人のために簡単にいうと、2001年の9・11によるテロ行為の報復としてブッシュ大統領がイラク侵攻を始めたからだった)

 この発言に対して当時のブッシュ大統領は、自由の国アメリカなのだから発言することは自由だし、その内容についても特に気にしてはいない、むしろイラクでもそういうことが自由に行われるように、アメリカが変えていくんだというようなことを述べていた(と思う)。当時のブッシュ大統領の支持率は、90%近いものがあったから余裕があったのだろう。正義の名のもとに、アメリカ人の愛国心を奮い起こし、そして世界の平和と調和を守るための戦争といわれていたのだから大儀名分を備えていたのである。

 ということで、このアルバムを発表する前の彼女たちに対する風当たりはかなりのものがあり、アルバム発表やコンサートの実施といった音楽活動の前に、彼女たちのみならず、彼女たちの家族を含む安全が脅かされるほどの危機的な状況に臨んでいた。それで自分は判官びいきというわけではないのだが、バッシングをされている彼女たちに何とかして力になってあげたいと思って、このアルバムを購入したのである。決して彼女たちが美人だからとか、セクシーだからとかいう不純な動機からではなかったのだ。

 それでこのアルバムを聞いてみてびっくりしたのは、1曲1曲の楽曲が優れていて、ディキシー・チックスというバンドは見た目だけではなくて、実力をも兼ね備えているミュージシャンたちということだった。
 以前にも彼女たちのことは、ザ・ジェイホークスのアルバム「寂れたモーテルとズッと続く道と」のところで簡単に触れたのだけれど、今回はもう少し記してみようと思った。

 もともとバンドは、カントリー・ミュージック主体の音楽をやっていた。結成は1989年と意外と古くて、人気が出るまではかなり時間がかかっており、2回ほどメンバー・チェンジも行われているようだ。もともとは4人組だったが、今では3人になっており、その中心メンバーはフィドル、マンドリン担当のマーティ・マグワイアとギター、バンジョー担当のエミリー・ロビソンで、この二人は実の姉妹にあたり、それぞれが結婚して名まえが変わっている。
 もう一人のボーカル担当がナタリー・メインズという人で、この人が1995年に加入してから徐々に人気が出始め、1998年に発表された「ワイド・オープン・スぺイシズ」は全米で1200万枚以上の売り上げを記録し、一気に名前が知れ渡っていったのである。

 それでメンバーのナタリー・メインズが、ブッシュ大統領のことについて発言したことが一気に全米中に拡散していったのだが、それはそれほど影響力のあるバンドということの証明でもあり、だからバンドに対するバッシングもそれなりに激しかったのだろう。もし、これがマイナーなバンドだったら、TVのニュースで紹介されることはなかっただろう。

 それで肝心な楽曲だが、この「テイキング・ザ・ロング・ウェイ」は14曲で構成されており、約66分もあった。冒頭の"The Long Way Around"は、カントリー・ミュージックの影響からか、アコースティック・ギターの伴奏で始まり、リズム陣が続き、スティール・ギターとバンジョーが軽快に絡んでくる。アルバム最初の曲としては申し分なくリスナーを乗せてくれており、さらにマーティの弾くフィドルが哀愁味も加えてくれる。彼女たちの持ち味というか、良いところが100%発揮されており、そういう意味ではほぼ完ぺきな楽曲だろう。

 続く"Easy Silence"はミディアム・バラードの渋い曲で、これも途中のフィドルがいい味を出している。もう少しテンポを落として、アコースティック・ギター一本で演奏すると、かなり印象に残るバラードになるのではないだろうか。
 バラードといえば、3曲目の"Not Ready to Make Nice"もそれに該当するかもしれない。ただサビの部分は力強く歌われていて、ブッシュ大統領との一件についての決意表明というか、自分たちの立場を宣言しているようだ。だから力も入るのだろう。このアルバムから最初にシングル・カットされた曲になった。

 ザ・ジェイホークスのメンバーであるゲアリー・ルーリスとの共作曲は2曲収められていて、最初は"Everybody Knows"。このディキシー・チックスのバージョンの方がよりカントリータッチが強くて、アメリカ人受けしそうだ。ちなみに2枚目のシングルにもなった曲だった。もう1曲は"Everybody Knows"の次の曲の"Bitter End"で、マーティのフィドルやエミリーのギターがフィーチャーされている。ザ・ジェイホークスの2018年のアルバム「寂れたモーテルとズッと続く道と」に収められていた原曲とほとんど違いはないが、こちらの方がバンジョーなども使用されていてカントリー・ロックといった面持ちがする。

 "Lullaby"は文字通りの静かなバラード曲で、さっきまでパワフルに歌っていたナタリーが、ここでは囁くように歌っている。しんみりとした佳曲で、秋の夜長に聞くと思わず感傷に浸ってしまいそうだ。
 逆に"Lubbock or Leave It"はリズミカルでハードなロックン・ロールで、共作者がトム・ペティ&ハートブレイカーズのギタリストだったマイク・キャンベルだった。エレクトリック・ギターだけでなく、エミリーの演奏するバンジョーもまた激しく鳴らされていた。きっとステージ上では受ける曲になるのだろう。

 "Silent House"はタイトル通りの静かな曲で、元クラウディッド・ハウスのメンバーだったニール・フィンとの共作曲だ。ニールの影響からか適度にポップで、メロディアスな部分がいつまでも耳に残ってしまう。エンディング近くのフィドルがワンポイントなっていて、一旦そこで終わり、またそこからサビの部分が始まるという凝った構成を持つ曲だ。

 "Favorite Year"にはシェリル・クロウが関わっているが、それにしてはロック色の薄い曲に仕上げられていた。ミディアム・テンポの緩いラヴ・ソングである。むしろ次の"Voice Inside My Head"の方がシェリルらしいのだが、この曲にはリンダ・ペリーという人がソングライティングに加わっていた。リンダ・ペリーという人は自分は良く知らないのだが、クリスティーナ・アギレラやグウェン・ステファニーなどに楽曲を提供しているシンガー・ソングライターのようだ。こちらの曲の方がよく練られていて、シングルカットされてもおかしくない程、豊かなメロディーと印象的なフレーズを伴っていると思った。しかもナタリーのボーカルにも艶や伸びがあり、感情がよく込められている。

 "I Like It"は明るい曲調で、彼女たちも自由に伸び伸びと演奏している。この曲もザ・ジェイホークスのゲアリー・ルーリスが参加していた。ただ曲の出来としては"Everybody Knows"や"Bitter End"の方がよくできていると思う。
 12曲目の"Baby Hold On"はいわゆるバラード・タイプの曲で、この曲にもゲアリー・ルーリスと彼の友人のミュージシャンであるピート・ヨーンが参加していた。曲のバックにはバンジョーが使用されているのだが、決してカントリー・ミュージック一辺倒というわけではなくて、カントリー風のロック・バラードといった感じだ。たぶん、途中のギター・ソロがカントリー風味を薄くしているのだろう。終わりの方の力強いボーカル・ハーモニーが、彼女たちの意志の強さを表しているようだ。

 "So Hard"もまたミディアム・テンポで歌われていて、人生は不条理でうまく行かないことが多いけれど、あなたの助けがあれば前向きに生きていけるというような内容だ。この曲もまた、彼女たちの当時の置かれた状況に対して歌ったものだろう。飾らずに率直に自分たちのことをさらけ出して歌っていたからこそ、彼女たちの人気がさらに高まっていったのだろう。

 最後の曲は"I Hope"というタイトルで、ゴスペル調の曲になっていた。もとはハリケーン・カトリーナによる被災地を救済するためのチャリティ・ソングだったもので、ブルーズ・ギタリスト兼シンガーのケブ・モーが曲作りに参加しており、レコーディングには今をときめくジョン・メイヤーがギタリストとして演奏している。また、このアルバムでは歌詞が一部手直しされており、ブッシュ政権に対する反発や反戦を含む内容になっていた。さすがディキシー・チックス、ただでは終わらないのだ。

 このアルバムは、全米アルバム・チャート初登場1位を飾り、全米で250万枚以上売れた。先ほどの"I Hope"はグラミー賞の2部門にノミネートされたが、惜しくも受賞は逃した。逆に"Not Ready to Make Nice"は"レコード・オブ・ジ・イヤー"と"ソング・オブ・ジ・イヤー"、"ベスト・カントリー・パフォーマンス"を受賞し、アルバム自体も"アルバム・オブ・ジ・イヤー"と"ベスト・カントリー・アルバム"の2部門で受賞した。この年を飾るアルバムになったのである。

 このあとディキシー・チックスは家族との時間をとりたいということで、ツアーが終わったあと数年の間は表舞台に出ることはなくなった。やはり精神的にも疲労が重なっていたのだろう。しかし、2016年頃から活動を再開し、世界中をツアーでまわっていて、今年中には14年振りになるスタジオ・アルバムの発表が予定されている。彼女たちも40歳代後半から50歳代になるが、まだまだ頑張ってほしいミュージシャンたちである。

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2020年1月27日 (月)

ビッグ・ビッグ・トレインの新作

 ビッグ・ビッグ・トレインの新作といっても、昨年の5月に発表されたものでもう半年以上も経っている。だからもうすでにそれなりの評価がたっているかもしれないけれど、自分なりに感想を記してみようと思う。

 知っている人は知っていると思うけれど、ビッグ・ビッグ・トレイン(以下BBTと略す)は、1990年にイギリスはドーセット州のボーンマスというところで結成された。それ以前のBBTは、もともとはパンク・バンドでバーミンガムで活動していた。その頃は、オリジナル・メンバーのグレッグ・スポートンの兄であるナイジェル・スポートンがバンドを率いていた。
 もう一方のオリジナル・メンバーだったアンディ・プールは、ボーンマスで作曲活動を始めていて、スポートンがボーンマスに引っ越して知り合いになり、バンド活動を始めた。その時にスポートンの兄のバンド名を引き継いだわけだ。パンク・バンドとしてのBBTの歴史はそんなに長くなかったようだ。

 そして、グレッグ・スポートンとアンディ・プールは、メンバーを集めてバンドを結成し活動を始めた。最初のデモ・アルバム「フロム・リバー・トゥ・ザ・シー」は1992年5月に発表され、一部の評論家からは高い評価を得ることができた。当初は"マリリオンの再来"ともよばれたらしいが、そうなると"ジェネシスの再再来"になると思うのだが、真偽のほどは定かではない。

 最初のオフィシャルなスタジオ・アルバムは、1993年に発表された。タイトルは「グッバイ・トゥ・ジ・エイジ・オブ・スクリーム」といってまずまずの評判だったが、ここでキーボード・プレイヤーが交代した。これが、これから続く目まぐるしいほどのメンバー・チェンジの始まりになった。セカンド・アルバムの「イングリッシュ・ボーイ・ワンダーズ」の発表まで3年もかかったのも、メンバー・チェンジの影響からだった。しかし、このアルバムはコケてしまった。演奏に緊張感が伴っていなくて、漫然とした印象が強かったからだ。当然ながらセールス的にも失敗してしまい、さらにメンバー・チェンジが行われた。(ただ、バンド的にはこれが悔しかったのだと思う。2008年には「イングリッシュ・ボーイ・ワンダーズ」をミキシングし直して再発している)

 3枚目のスタジオ・アルバムの「バード」はセールス的にも良くて、ここからBBTの人気が高まり、固定ファンの獲得につながっていった。2007年の「ザ・ディフェレンス・マシーン」には、マリリオンやスポックス・ビアードのメンバーをゲスト陣に迎えていて、このアルバムもまた評価が高かった。
 そして、彼らの人気を不動のものにしたのが2009年の6枚目のアルバム「ジ・アンダーフォール・ヤード」だった。このアルバムには、XTCのデイヴ・グレゴリーや元イッツ・バイツのフランシス・ダナリーらが参加していて、楽曲の豊かさに彩りを備えていた。

 この後も過去のアルバムの再発や新作が発表されていくのだが、アルバムを出すたびにメンバーが変わっていくような感じで、2018年には最後まで残っていたアンディ・プールまでも脱退してしまった。結局、オリジナル・メンバーで今も残っているのは、グレッグ・スポートンだけになってしまった。確かに、プログレッシヴ・ロックのバンドには、イエスやクリムゾンのように激しくメンバー・チェンジするものも多いのだが、このBBTもまたその例に漏れないようだ。

 12枚目にあたる新作「グランド・ツアー」は、6曲の短い曲(短いと言っても中には8分を超えるものもある)と3曲の組曲で構成されている。タイトルの"Grand Tour"というのは、17世紀から18世紀にかけて、イギリスの裕福な子弟が学業の終了時に行ったといわれている大規模な国外旅行のことで、要するに"卒業旅行"をモチーフにして作成されていた。国内盤には7インチサイズのカラーブックレットも添付されていて、そのせいか、お値段的にも1枚のアルバムなのに2枚組に匹敵するものだった。できれば普通の解説と和訳でいいので、3000円以内におさめてほしかったと思っている。

 冒頭の"Novum Organum"はマリンバのような静かなキーボードで始まり、クールに忽然と終わって行く。アルバム全体のプロローグの役目を果たしているのであろう。続く"Alive"はノリの良い曲で、しかも最初からメロトロンが爆発しているから、これはもう私のようなメロトロン信者には願ってもない曲だった。ロイネ・ストルトもこういう音楽をやればいいのにと思っている。最近の彼の楽曲には、この手の疾走感が欠けているのだ。

 BBTの評価が高いのは、メリハリのバランスがいいからだろう。叙情的な曲では思いっきりジェネシス化しているし、ノリのいい曲では黄金期のイエスをも凌駕するような緻密さやテンポの良さを備えている。だからといって後期ジェネシスのようにポップ化はしておらず、プログレッシヴ・ロックにつきもののテクニックもあれば、耳になじみやすいメロディアスなフレーズも備えている。

 それに"The Florentine"という曲には、フォーク的要素もあれば、後半になってムーグ・シンセサイザーのソロも聞くことができるし、イエス的なアンサンブルの良さも垣間見れる。こういうバランス感覚が優れているのがBBTの音楽の特長ではないだろうか。

 最初の組曲"Roman Stone"は5つのパートの分かれていて、13分34秒という長さだった。この曲とその前の曲"The Florentine"はイタリアが主題であり、特に"The Florentine"はレオナルド・ダ・ヴィンチを、"Roman Stone"はローマ帝国の盛衰をモチーフにしている。ほかの組曲にも言えることだが、BBTの長い曲は"起承転結"がはっきりしていて、最後まで飽きさせないし、時には楽器のソロや管楽器の使用などでアクセントを添えてくれる。この"Roman Stone"も同様だった。

 "Pantheon"もまた最初からメロトロンが使用されている。この曲はインストゥルメンタルで、最初は静かに、徐々にリズムが強調されて変拍子も使用されていく。まるでジェントル・ジャイアントの曲のようだ。途中でフルートやキーボードのソロも用意されていた。曲を作ったのはドラマーのニック・ディヴァージリオという人で、タイコも叩ければギターもキーボードも演奏するという才人だ。
 そのニックがダブル・リードボーカルで歌っているのが次の"Theodora in Green and Gold"で、まるでグレッグ・レイクの歌う"Still...You Turn Me On"のような出だしが秀逸だし、ニックの声はそこまで深みはないのだが、聞いていて悪くはない。曲の中盤からエレクトリック・ギターが添えられて、聞かせてくれるプログレッシヴ・ロック曲になっていた。

 2番目の組曲"Ariel"は14分28秒という長さで、3つの組曲の中では一番長かった。この曲のモチーフは、ウィリアム・シェイクスピアの作品である「大あらし」に登場する精霊のことについてであり、シェイクスピア自身がこの精霊についてほとんど説明していないため、この曲で自由に想像を膨らましているようだ。8パートに分かれていて、部分部分でバイオリンやストリングスが使用されていて、まるで演劇を観ているかのような錯覚に陥ってしまった。上にも書いたが、こういう曲構成の巧みさがBBTの素晴らしさである。

 続いて3番目の組曲"Voyager"が始まるが、この曲は7つのパートに分かれている。このタイトルは、1977年に始まったアメリカの太陽系外探査計画におけるボイジャー1号と2号についてであり、そのせいか、曲調もやや無機質というかボーカルよりも演奏に比重を置いているようだった。
 前の曲の"Ariel"にはすべてのパートでボーカルが含まれていたが、こちらの組曲では7パートのうちパート1と3、6、7にボーカルが入っていて残りはインストゥルメンタルだ。またそのインストゥルメンタルにも、室内管弦楽のような優雅な雰囲気を醸し出しているところもあれば、パートのつなぎに管楽器が使用されているところもある。さらに、ジャズ・ロックを聞いているようなパートもあれば、無理のないように叙情的に盛り上げていくところもある。この辺の変幻自在さというか展開の素晴らしさは、まさにBBTの独壇場だろう。ただ気になるのは、これをライヴで演奏するのは難しいのではないだろうか。

 そして最後の曲は"Homesong"だった。無事に家に帰還したということだろう。あるいは無事に帰れることを願っての歌かもしれない。これもまたメロディー自体はポップな印象ながらも、多彩な楽器が使用されて転調も多く、テクニカルな面を備えていた。4分50秒と彼らにしては短い曲だが、彼らの音楽的要素がギュッと濃縮されているようだ。

 全体を通して聞くと74分もあり、これに国内盤にはボーナス・トラックが1曲ついているから80分近くになる。もうおなか一杯という感じになるのだが、こういう表現力の豊かさがあるということは、いまがBBTの最盛期なのかもしれない。現在のイギリスのプログレッシヴ・ロック界を牽引しているのは、ビッグ・ビッグ・トレインであることは紛れもない事実なのである。

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